明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙



金引青果
瀧野カヅエさん


昭和7年生まれ、71歳。伊川谷の農家に生まれ、昭和29年21歳の時に魚の棚の豆腐店『金引商店』に嫁ぐ。同50年頃に『金引青果』を開店、長男に商売を任せた今も毎日店に出る。
魚の棚に嫁いだ女たちの歴史 過酷な時代を乗り越えて
 「知って来たか、知らずで来たか、地獄八丁の魚の棚」。瀧野さんが三代続く豆腐屋に嫁いですぐ、隣にあった「魚兵」の奥さんに言われた。「ここは生き馬の目を抜くようなところやで、あんた足元の明るいうちに帰り」。ぞっとする言葉だが、その頃の魚の棚で嫁に課せられる仕事は実際、過酷なものだった。夜中の十二時過ぎに起きてボイラーに石炭をくべ、豆を臼で挽き、釜で炊いて豆腐を仕込む。住み込みの従業員を合わせて二十人近い大所帯の食事の世話も、おくどさんに薪をくべて米を炊く時代である。毎日睡眠は三時間、休みは盆と正月だけ。「八年後に機械化して、やっと朝四時起きになった。それまでは姑が厳しかったことや、十一年間子どもができなかったこともあって、精神的にも本当に辛い時期でしたねえ」。 近所の知人に「自分の土地を守ってほしい、あんたに買ってほしい」と言われたのは三十年前のこと。一家の主でもない、乳飲み子を抱えた女性に頼む話でもないだろうが、よほど人柄を信頼されたのだろう。譲り受けた場所で八百屋を始め、それからは子育てをしながら働きに働いた。その後、十年前に夫を亡くし、震災で機械も壊れて豆腐屋は閉店。その場所では今、次男が菓子店を営む。
 時に目を潤ませながら、それでも「魚の棚に育ててもらったから、来てよかった。あの厳しさがあって今がある。つらいことがあったら胸に手を当てて、原点に帰るようにしています」と語る彼女の顔に陰りはない。今も毎朝店に出て、近所の子どもたちに「いってらっしゃい」と声をかける。嫁という立場の同士だった「魚兵」「松庄」の奥さんと話をしたり、食事に行けることが幸せという。

 

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