今年もいかなごの旬がきました。好みの大きさの新鮮な新子を求めて鮮魚店に集まる人の列は、瀬戸内地方の春の風物詩となっています。でもそれは20年ほど前からの話。甘辛く炊きしめて保存食にする「くぎ煮」という食べ方が一般家庭に定着したのは、意外と最近のことなんです。今や大人気となったいかなごについて、まずはその歴史を振り返ってみましょう。
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いかなごと魚の棚
「くぎ煮」という食べ方が登場する以前、いかなごの新子(稚魚)は漁師家庭では釡上げや、干して甘辛く味付けた保存食「げんごべえ」などにして食べられていました。
魚の棚はもともと卸売市場としての機能が主でした。小売りのお客さんが増えた1970年代以降、塩干物店や鮮魚店で釡上げを積極的に販売するようになり、人気となりました。新子の他にふるせ(親魚)の釡上げも好まれ、「昔はふるせをつけ焼き(しょう油味で焼く)にして、巻き寿司の具にしたもんや」という話は今も明石でよく耳にします。
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くぎ煮が生まれた場所は?
いかなごのくぎ煮がいつ、どこで作られ始めたのか。その説はいろいろありますが、垂水区塩屋町で代々漁師を営み、1919年より鮮魚店を創業した「魚友」さんにはこんなお話が伝わっています。
1935年、魚友にお客さんから「いかなごを佃煮にしてくれないか」という依頼があり、しょう油、砂糖(キザラ)、生姜を使って試行錯誤の末に炊き上げたそうです。その後、そのお客さんが近所の住人に配るなどするうちに評判になって、魚友の店頭でも商品として販売するようになりました。1960年代になって神戸市垂水漁協の組合長により、できあがりの姿が錆びた古釘のようだ、ということで「くぎ煮」と名付けられました。
※鮮魚店魚友は現在休業中ですが、くぎ煮の歴史や詳細な情報をまとめたホームページ「いかなご釘煮の由来!魚友」で情報を発信されています。この項は運営者に許可を得て、内容を転用させていただきました。
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くぎ煮の普及
主婦が家庭で作るくぎ煮が定着し始める以前にも、くぎ煮を作って販売する加工会社はありましたが、知名度は低かったようです。しかし、漁協婦人部が主婦向けの料理教室を行い、家庭料理としての普及に努めたことや、「コープこうべ」も普及活動に乗り出したことによって、家庭料理としても人気が出ました。
また、1995年の阪神淡路大震災の後、被災した神戸の人たちがお世話になったお礼として、瀬戸内独自の味であるくぎ煮を全国各地の知人へと送ったことが、爆発的な人気へと繋がっていきました。
家庭でくぎ煮を作る文化が定着するとともに、既成品のくぎ煮も需要が広がり、魚の棚でもいろんなお店でそれぞれの個性あるくぎ煮が販売されています。 |
浜のお母さんの記憶
魚の棚商店街の「明石焼 楽々」スタッフの若松さんは、生まれ育ったのも嫁いだ先も明石浦の漁師家庭で明石浦漁協でも勤めていた根っからの「浜のお母さん」。そこで、幼い頃からのいかなごの記憶を聞いてみました。
子どもの頃、淡路の岩屋に行った時に、くぎ煮や佃煮を炊いている店を見たのが最初。その頃、明石ではまだくぎ煮はなくて、学校から帰ってきたらおばあちゃんが船の上にゴザを敷いて、洗ったいかなごを天日に干していた。くっつかんように、30分ごとに表裏を返して、干し上がったものを「げんごべえ」にする。壷に入れて保存して、紙に包んでおやつに持たせてくれた。
漁協には香川県の引田から、ハマチの養殖をしている人が、餌として毎年イカナゴの新子を買いに来ていた。”バッカン“と呼ばれる金属製の箱に入れて運んで…。私が漁協に勤め始めた昭和34年頃には来てたけど、そのうちに姿を見なくなったねえ。
※魚の扱いならお手のもの、の若松さん。いかなごのくぎ煮のレシピも早くから独自で作り上げ、普及に努めてきたひとりです。3Pには「浜のお母さんのくぎ煮レシピ」も紹介していますので、ぜひ参考にしてくださいね!
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