魚の棚400周年記念企画第2弾29号

うおんたな古今東西【魚の棚を熱く語る、東西理事長対談編】
2019年、明石城築城、魚の棚生誕400周年を迎えた。前号に引き続き今回は、
【魚の棚を熱く語る、東西理事長対談編】と題して魚の棚商店街、東西理事長対談が実現した。
東は「あかし多幸」安原宏樹理事長。西は「金引青果」瀧野幹也理事長。
魚の棚初、東西理事長対談。お二人に魚の棚への想いを熱く語っていただきました。それでは、はじまりはじまり~
(聞き手:松谷佳邦/都あきこ)※記事内敬称略

松谷:今日は魚の棚誕生400年を記念して、商店街としての初めての試み、両理事長対談をやってみようと企画しました。まずは、それぞれの商売感から聞かせてもらおかな。
瀧野:兄弟が多かったし、「店を継がなければ」という明確な意志があったわけではないが、そこは長男としての性か青果店を継いだんです。先代の豆腐屋から数えると4代目。父の代に青果店を起業し、2代目。その頃は世間の景気バブルは終わっていたが、魚の棚は潤っていて羽振りのいい時代。いわゆる「魚の棚バブル」の頃でした。商店街の店主同士の付き合いも楽しかったし、青年会ではゴルフや飲み会などの付き合いも多く商売共に活気があった。しかし、平成8年に阪神淡路大震災が起こり、景気が落ち込む転機となりました。店は半壊したが、これもチャンスだと建て替え、対面販売をセルフ販売に切り替え、なんとか今日までやってこれました。しかし、平成10年4月に明石海峡大橋が開通して以降、商店街周辺に飲食店が増え、飲食店に納める割合が増えたことがある意味プラスに。景気のいい時代が過ぎ去り、今は採算面、精神面ともにしんどいこともあります。ワンストップで商品が揃うスーパーマーケットやネット販売が増える中で「違い」を出していかなければならない。値段だけではない部分で勝負していきたい。価格競争になっても、信頼関係を大事にしています。仕入先も、納品先とも心がけているのは、顔の見える商売です。
毎日夜明け前の犬の散歩から一日は始まります。犬の散歩を終え、神戸の青果市場まで仕入れに。商売が終わるのは、夕方6時半~7時半ぐらい。日々のことに追われて、気づけばロマンスグレーに。
安原:うちは元々3代続く「カネト果実」って果物屋だったんです。親戚は皆魚関係なんですけど祖父が果物屋をしたかったから果物屋さんを始めたと聞いています。小さい頃から記憶を辿ってみると、お祖父ちゃん子でよくお店のミカン箱で工作したりしていました。小学校の夏休みには小遣い稼ぎに仕入れや荷下ろしを手伝ったりしました。トラックの荷台からりんご箱と一緒に落ちたらりんごの心配をする父でした。(笑)小さい頃からそういう体験をして親の背
中を見ていたのでなんとなく家業は継ぐんだろうな。という想いがありましたね。高校卒業後、社会勉強でいろんなアルバイトを経験してから店を継いだ。バブル終わりかけの頃だったな~。それから30歳の時に父に社長になりたいと告げ、同じ歳に商店街理事長にも就任した。色々と商店街の活動に参加させてもらいながら、商売替えしたいと宣言したのは34歳の時。

都:なぜ商売替えを?
安原:一番大きなきっかけは、子どもが生まれたことですね。結婚して子どもが生まれて、自分の代はいいけど、次の代に継ぐことを考えると、果物屋ってどういう風になっていくんやろ?と考えました。例えば、スーパーは入口に果物って置いてますよね?華やかさや季節感がある旬の果物をセール品として販売できちゃう。スーパーでは他の商品も揃っているので果物で儲けなくても商売になるんです。スーパーがなかった頃は商店街がその役割を担ってきたけど商店街で全ての買い物が揃わなくなってきている時代に果物屋を続けていくというのはどういうことになっていくんやろう。という疑問が生まれて。まず一つ危機感がありました。
もう一つは、早い段階で商店街の役員になったんだけど、いろんな折り目に水産関係や飲食関係のことを取材などで聞かれる機会が多く、自分が携わっていないからわからないというジレンマがありました。当初は明石焼をメインでしようとは思っていなかったんです。嫁さんと旅行に行った時串本でカツオ茶漬けというのがあって、明石では鯛もタコも有名なのにタコは明石焼で食べられるけど鯛でなんか美味しいもんできたらええのにな~と思いついたのがきっかけ。うちのお店の立地条件で飲食の商売やったらどんなことになるんやろうと考えるように。明石焼に関してはプラスαで当時結成されていたあかし玉子焼ひろめ隊の前身となる「玉選組」にも明石焼やってみたいと相談して。それで、明石焼+鯛茶漬+たい焼の3本柱で始めた。商売始めてみたら、圧倒的に明石焼の需要があることが判明。たい焼は夏は売れない。それなら明石焼を増やした方がいいとたい焼を無くして2本柱に。34歳の時に商売替えをして、今で13年です。
松谷:明石焼屋さんに転向してよかったな。これは商売冥利につきるな~と思うことは?
安原:多分、小売店と飲食店の違いかもしれないんですが、自分のところでオリジナルの商品を出せるから仕入先の値段競争とかではない世界。スーパーが近くに出来ようが量販店が郊外にできようが、それとはあまりバッティングしない業界。ま~みんな胃袋は一つなんである程度分かれていくけど、一番食べたくなるような明石焼屋をしたい。味はもちろん外観や居心地も含めてどのようにしたらお客さんがいらっしゃるのか日々悩んでいます。(笑)が?きっとどこの明石焼屋さんも同じ悩みを持ってるとは思いますけど。

【なぜ理事長になったのか?】
安原:震災の後、明石海峡大橋が開通して商店街に観光のお客さんがどっと来る時代がありました。観光型商売と地域密着型商売、店の方向性が全く違うのに観光のお客さんが押し寄せて。もともと東西に商店街振興組合は分かれていて僕は魚の棚青年会の会長をしていました。青年会は東西一緒。西の若手とも東の若手とも会う。東と西の予算の違いや、新しく商店に入ってきた方と元から商売している方との方向性の違いなどがあり、一時期商店街の中がなんかギクシャクして風通しが悪くなった。なんやったら、東だけで事業やったらええやん。という人もいて、うちの店は魚の棚東商店街振興組合からしたら、西の端にある。当時は果物屋だったがうちからするとここから先が西商店街やとか、こっちからこっちが東商店街やとか関係ない。境界線上にあったらお客さんからしたら、西も東もない。そういうことするなら、やめてしまうで。という動きをしました。一種のクーデターという感じで。全店舗参加の選挙で理事を決め互選で僕が理事長になった。それが30歳のとき。振興組合は2つだったけど、東西一緒に事業すべきだと提案し、同年代の商店主を中心に副理事長になってもらい協力を仰いだのが始まり。最初の何年かは、先輩達から批判もされ、それに対抗して理論武装したりという時代もあったが、今思えばそういう経験に育てられた。あの時のしんどさに比べたら、なんでも造作ないと思えます。
瀧野:理事になった時は、ただただ東の先輩方の勢いに圧倒されっぱなしでした。商店街の全てをリードしてもらっていて安心感がある反面、我々西の面々は、発言権がない感じで息苦しく感じる時もありました。それは私だけでなく理事長はじめ当時の役員方はみんな感じていたと思います。そんな折いつも先輩方が主導してきた「歳末大売り出し」に西の代表として企画運営に携わらせていただきそこで経験した連帯感と達成感が後に理事長就任へと繋がったと感じています。
松谷:いつまでも先輩方に頼ってたらあかんな。という思い。俺ら、これ以上甘えたらいかんな。というところで受けたんじゃないか。
瀧野:当時は「少年隊」のようだった西の売り出しメンバーが今は主力となりました。次第に仲間も増え、今の組織を構成しています。
松谷:新しい体制が整い、東西の土俵が揃うようになってきた。

【理事長になって苦労したこと】
滝野:理事長を中心に理事会があって理事会の主な業務は「会費の集金・商店街の運営・アーケードの管理」の3つです。 会費を集めるのは大変ではないのですが、やはり魚の棚は世間の商店街と比べてもやや会費が高めなので使い道をきちっと説明して納得してもらう必要があります。そのため運営にも手を抜かず費用面も明瞭にしなければなりません。特に西は、かつて資金面で苦労した経験があるので、会員からの会費用途への目が厳しく、コスト意識が高いのであらゆる事業において、少しでも「安くて、いいもの」を第一にしますね。
アーケード管理は本当に難しいです。商店街の雨漏り対策は、まさにイタチごっこだし、10年20年先に備えた改修も頭に入れておかなければならないし…そんな中、昨年西入口のテントを修理する際に、会員の集合写真を載せてみたりと、ちょっとした遊び心も盛り込んで理事会の仕事に取り組んでいます。

安原:何が一番苦労するかというと、それは温度差。僕の場合、自分が熱くなりやすい。僕はどちらかというと火付け役。同じやるならみんなでやった方がええんちゃうんと思う。Bー1グラインプリチケット受け入れの参加や、売り出しは全員参加が理想。でも理想と現実は違い、全体の機運盛り上げの邪魔をするのが温度差だったりする。全員でってこだわり過ぎると何もできない。やらない人に合わせていたら商店街は衰退する。なので基本的にはこの指とまれ方式でいいと思っている。全員案内は流して、やる気のあるメンバーが指にとまり今回はこのメンバーで楽しみながらやりましょう。というスタンスを大切にしたい。アーケードに掲げたタペストリー企画も、魚の棚×ヱビスビアガーデン企画も賛同した組合員さんが汗をかき楽しむのが良い。他の商店街からもこんな仕掛けをしている商店街は、すげえなと思ってもらえると嬉しい。研修に行った先の商店街の理事長さんが魚の棚の事を知っててくれていることが多くて七夕飾りや、大漁旗を見て、この商店街、なんや元気やな~おもろいことしてるな~全国的に商店街の衰退が取りざたされてる中で明石は元気で活力あるなってよく言われます。よく旅行に行った先で商店街に行きますが、魅力的な町は商店街も魅力的やなと明石にとっての元気を発信できる場所であること。面白いことしてるところに人は集まってくる。そういう商店街でありたいです。

【理事長やってきて財産になったこと】
安原:実際商店街の理事長を務めることで自分の人生がどんだけ豊かになったか。と思うことが多い。やらないよりしんどいけどやった方が豊かだと思う。「しんどい」と「豊か」はくっついている。人脈の面、対外的にも行政さん、商工会議所など多方面につながりができる。人のつながりで一緒に汗かいた時の達成した喜びは何にも代えがたい。重圧もあるし、責任を取らないといけない立場というのもあるけど、権限も与えられているので自分が発案したことをみんなと共有できる喜びというのが理事長になった最大のギフトかな、と思います。
松谷:お~ええ話や~。
安原:齢、アラフィフになってこれまでの人生と云うものを考える。何十年の人生。何に対しても逃げない。」
都:座右の銘ですか。
安原:座右の銘ちゃうんですけどね。結構トライしてきた人生でした。
松谷:安原くんの座右の銘は俺は好きやで。多分これやろ。
瀧野:やって良かったことは仲間が増えたことに尽きますね。はじめ僕が理事会の用事で店に訪れても「また余分な仕事を持って来て」みたいな感じでイヤな顔をしていた人も、何度か通ううちに「魚の棚」のためになっていると認識してくれれば対応にも現れてくる。新顔として新しく商店街に入って来られる方には「しきたり」を理解してもらおうと、どうしても初めは厳しめに接してしまうのですが、軒を並べて商売しているうちに、今では「みきちゃん」とか「ミッキー」とか呼ばれて…なめとんのか(笑)。そんな風に、ものすごく商店街の運営がスムーズになってきています。周りの人と話がしやすい状況になり、何かあれば手伝ってくれる。まとまりのある商店街になったと思います。
松谷:ほんとなにかとやり難かった時期もあったけど、気がつけば商店街の面子も若返り今では風通しの良い商店街になったよなっ、これも両理事長のおかげやね、流石!

【これからの魚の棚。次世代へのメッセージ】
瀧野:正直言って、自分の店も含めて、今現在のことで精一杯で10年先のことを考える余裕はないです。ただ何世代も前から受け継がれて来たこの商店街を多少形は変わろうとも「明石の魚を中心とした商店街」というコンセプトはずっと続いて欲しい。そのためにルールづくりや商売人から滲み出て来る雰囲気づくりが大事になってくると思います。ちなみに商店街運営のモットーは「和をもって貴となす」魚の棚の聖徳太子と呼んでください。(笑)
安原:今年で400年。先人の人たちが作って築いてくれた魚の棚。せっかく出来ている魚の棚のブランディング、色みたいなものは、後から継いでいく我々がそのブランドをとんがらしていく必要がある。じゃないとどことも変わらない商店街になってしまう。それは悲しい。町づくりをやっていても、地域の価値を上げるのが商店街活動の一つだと思っているので、そこにいる商店街に入る人に求めているのは、「ノリよく」あって欲しい。最近は、理事の皆さんからもこんなことしたいあんなことしたらええんちゃうん。という声が上がってきている。
言い方悪いですけど、店は一度こけたらアウトですが、商店街の事業はチャレンジできる場所なので、やる気のある人がトライ&エラーで新しい事業に挑戦してほしい。それが自分の商売にフィードバックできる。というような商店街であって欲しいですね。
松谷:二人とも熱量がすごい。それぞれの得意、不得意で補ってこれからも魚の棚を頼むで。
大切にしたいのは、「ルール、絆、それを守り継いでいく空気感。」
西の理事長 瀧野さん

「成功の反対は失敗じゃない。成功の反対は何もしないこと。」
この一言に凝縮される。
東の理事長 安原さん



 「やっぱり、魚の棚なんです。魚、なんです。」我々も結局、八百屋で偉そうに言うてますけど、魚屋さんあっての八百屋なんです。うちの売れ筋スペースには、大葉やわさびなど魚料理に使うものは年中並んでいます。いかなごの時期は生姜が爆発的に売れます。つまり、魚の棚があって、魚屋があって、それで我々がいる。魚の棚で商売をする人には、魚の棚というブランドを大切にして、明石の魚あっての商店街ということを理解してもらいたいですね。
人様の前に出る時は出来る限り笑顔でいるように努力しています。お客様は怒っている人からは商品を買ってはくれないでしょうからね。『笑う角には福来たる』私のモットーです。


できるだけ仕組みを作ってそのシステムでやっていけるような状態を作りたいというのが僕のやり方。空いた時間で僕は違うことや新しいことを考えたい。違う商売や、違うチャンスを見つけれたらいいやん。という考え方やったので従業員さんを多少多めに雇っても育てて自分は次の一手を考えようと。人手不足も深刻ですし、従業員さんは、昔に比べると想像もつかないような人もいる。レジからお金がなくなるとか、過去にはそういう子もいた。最近は求人をかけると、接客は難しいが洗い物はできるというタイプもひっくるめて来る時代。昔なら若い人が欲しかったけど、今は若い人も年配の人も関係なく適材適所で働いてもらう時代が来ている。
その人達を雇ったからには、人生の一部を切り取ってうちで働いてもらうことになるから、よそに行った時に恥ずかしくないぐらいのことは教えてあげたいと思う。やがてその子達も就職が決まったら辞めていく。また新しい人を一から育てる。その繰り返しなので、「人の育て方」みたいなところが悩みどころでもあり、その部分が自分の仕事なのかなと思っている。

編集後記
 今回の取材で林さんの「昔は良かったというのは容易」という言葉が身に染みました。
 先人の築き上げた魚の棚、その恩恵を受けて商いをさせて頂いていることと、それをいかに次世代へと繋げていくのかということ、今一度考えていかなくてはいけないと改めて感じました。
 今年は魚の棚も生誕400周年、これを機にさらに魚の棚に興味をもっていただいて、足を運んでいただければ幸いです。  ミニコミ紙「うおんたな」編集委員長 松谷佳邦