魚の棚広報誌 うおんたな12号 

風景をたどる 昔のうおんたな

江戸時代に宮本武蔵の町割り事業から誕生したと言われる魚の棚。今回は明石のまちの台所として発展してきたうおんたなの、昭和、戦後から平成までの生の歴史を知る人たちに話を聞きました。写真とともに、かつての風景を思い描いてみましょう。

●昭和30~40年代●

魚の棚は卸売り 市場でもあった

 明け方5時には魚の棚に明かりが灯り、にぎやかになる。明石港で前もん(明石海峡周辺の魚)のせりが始まり、6時には神戸の中央市場から筋もん(全国各地の魚)の仕入れが帰ってくる。両方が揃う7時ごろから、9時ごろまでは卸売の商売。カンカン屋と呼ばれる無店舗の魚屋が、淡路から缶をかついで魚を仕入れに来て、神戸や大阪へ売りに行く姿も多かった。今では考えられないが、漁師が直接に魚を持ち込み、マージンを払って魚の棚の店先のスペースを借り、自分で値をつけて売るということも多かった。
 当時は魚の棚の東西の大通りより南のあたりにも店舗が並んでいた。そして魚屋は荷受であり仲卸であり、小売でもあった。「管亀」は大通りではなく南北の筋に店舗を構えていたので、魚屋を相手に商売をする仲卸を主としていた。東西の大通りに店を構える魚屋には、そのメリットを生かして小売と仲卸の両方を行う店もあった。

昭和49年。神戸の中央市場で仕入れた筋もんの魚を車に積んで帰ってくる。下ろす端から飛ぶように売れた。(ふるさと明石写真帳より抜粋)

昭和49年。明石港の市で仕入れた前もんの魚はトロ箱で自転車に積んで、大急ぎで店へと運ぶ。(ふるさと明石写真帳より抜粋)

昼からは再び、せりと小売の商売で活気づく

朝の卸売りの商売が終われば、昼は12時から再び明石港でせりが始まる。これが今も残る明石独特の流通、昼市だ。魚の量は今と比べものにならないほど多く、活気に満ちていた。とくに、年末の魚の棚は通る隙間もないほどごった返したという。
 今の時代は魚をさばける人が少なくなり、魚の棚の鮮魚店でも希望に応じて料理(下処理)して販売する店がほとんどだが、当時は丸のままの魚でもよく売れた。それだけ魚を扱える消費者が多かった 。

●昭和53年●

仲卸で新天地に行くか、小売で勝負するか魚の棚の魚屋が大きな選択を迫られた年

 昭和52年に藤江に明石市の公設卸売市場ができ青果部門が、翌53年には水産部門が営業を開始した。この時、魚の棚から「管亀」のように仲卸を主とする魚屋は一斉に新しい卸売市場へと移転した。以後、魚の棚で行われていた仲卸業はこの公設卸売市場で行われることとなり、魚の棚に残った魚屋は小売専門店として存続した。
 昭和53年を境に、魚の棚商店街の風景はがらりと変わった。かつての朝のにぎわいは消え、大勢が住み込みで働いていた暮らしの形も徐々に少なくなっていった。昔の魚の棚は労働環境としては過酷だったが、その反面、活気を極めた商店街の風景を懐かしがる声も多い。

藤江の明石市公設地方卸売市場

昭和30年代後半に埋め立てが始まるまで、白砂青松の風景が美しい中崎海岸周辺では「欽明館(きんめいかん)」や「衝濤館(しょうとうかん)」といった料理旅館が人気を博しました。

昭和53年以前の魚の棚が担っていた3つの機能
荷受(にうけ)=漁師さんから魚を引き取る
仲卸(なかおろし)=小売店向けに販売する
小売(こうり)=一般消費者向けに販売する

「管亀」菅野照雄さんからお話をいただきました
 明治30年に初代の菅野亀太郎さんが12歳の時、大八車に魚を積んで売ったのが「管亀」の始まり。三代目の照雄さんは昭和53年まで魚の棚に店舗を構えていたが、以後は仲卸として明石の中央卸売市場に移転、現在も営業している。

昭和の時代 魚の棚に生きた男と女

活気を極めた昭和20年代後半から40年代のうおんたなを懐かしがる声も多いその反面、当時の労働環境はかなり厳しいものでもありました。子育てと仕事、人生の大部分を魚の棚で過ごしたおふたりに、その暮らしと人生について語っていただきました。

卸売と小売を兼ねる魚屋の長時間労働

魚の棚・立町にあった昭和37年ごろの「菅亀」店頭風景。
朝7時ごろ、さあ商売が始まったという時間帯。
(菅野照雄さん提供)

 昭和20年代後半は、戦後の物資・食料不足がようやく解消されて「店に並べれば何でも飛ぶように売れた」と言われるような時代。魚の棚は戦火で焼けた後、昭和24年には駅前の大火の被害にも遭ったが、そこから復興して道路の拡張やアスファルト舗装がされ、自転車や自動車での鮮魚の運搬・流通もスムーズに行われるようになった。
諸々のことが重なり、菅野さんが10~20代を過ごした当時の魚の棚は空前の活気だった。
 魚屋は正月の1日、盆の1日だけが休みで、朝から晩まで1年じゅう働いた。朝は3時に起きて店の準備を始め、明石港で5時から開かれる朝市にせりに行く。せり落とした魚は自転車で店に運んで、6時半から9時ごろまでは卸売の商売。それが済んだら今度は再び12時から昼市が始まって、一般のお客さんや料理屋に売る。小売の商売は夕方6時ごろまで行った。

そんな生活でも、若いころは思いっきり遊んでました。朝から働いて、夜5時半から9時までは夜間の学校に行き、終わったら人丸のダンスホールへ行く。僕は社交ダンスがうまいんやで。ダンスに玉突き、アイススケート、マージャン。これが4種の神器と言われとった。自慢やないけどきれいな女の人ばっかりおったなぁ、そやから結婚する気にならんかった。三宮に行って夜も寝んと遊んどったけど、そんな日は朝、親父より必ず早く起きて仕事に行ったから文句を言われたことはなかったな。えらい目をいっぱいしても、僕の場合は楽しいこともいっぱいありましたな。
 辛い仕事やから従業員も集まらへん。親戚筋から連れてきても、辛いから辞めると言って何べんも帰ってしまう。長男は考える余地もなく跡継ぎと決まっとったんやけど、嫁さんに来てもらうのも大変です。「魚の棚はええとこや」と言いくるめられてくる田舎の人が多かった。
 新婚当初は、相生町に新築で家を建てたのに、忙しくてそこへ寝に行く時間が惜しかった。大家族のごはんもせないかん、店も手伝わないかん、帰る暇もなくて魚の棚の狭い家で10年ぐらい暮らしてました。家内は先代のおじいさんが惚れて連れて来たんやけど、笑顔がええんです、話好きやしね、ごっつい優しい。結婚して46周年になるけど1回もケンカしたことないんですよ。家内が怒ったとこを一回も見たことないんです。

嫁いだ先は「地獄八丁の 魚の棚」

「農家に生ま れてのんびり育った」という瀧野さん。嫁いでみれば、次の日からすべてが手作業の豆腐屋での重労働が待っていた。家族の誰よりも早く、夜中の0時半に起きて豆腐の仕込みを始めるのは嫁の役目。住み込みの従業員と家族の食事づくり、それも薪の窯に火をくべることから始まる。もちろん洗濯も手で、たらいと洗濯板でゴシゴシと洗う。これらの家事は店の仕事の合間に行っていた。ようやく寝床に就けるのは21時で、また3時間もすれば起きなければならない。定休日はなく、休みといえば正月の3が日とお盆の2日間だけ。こうして仕事と家事に追われる生活が続いた。他の商売でも忙しさに大差はなく、魚の棚では嫁のなり手を探すのに苦労していた。そのため田舎から女子を連れてきて結婚を仲介する業者のような人もいたという。

 21歳で嫁いだその日、近所の魚屋のお姑さんに「あんた、こんなとこよう来たなあ、生き馬の目を抜くようなところやで。足元の明るいうちにお帰り」って言われました。えらいこと言わはるなァってその時は思ったんやけど、それだけ魚の棚に嫁ぐということは大変なことやったんです。もちろん実家に帰ろうと思って荷物まとめたことも何回もありました。「知って来たか知らずで来たか、地獄八丁の魚の棚」、そんな風に言われるほど、魚の棚の暮らしは厳しかったですねェ。

女手で新たな商売にチャレンジ

 瀧野さんが豆腐店とはべつに自ら店を開いたのは昭和40年ごろのことで、豆腐屋も機械化し、朝は4時起きと少し楽になったところ。実家が農家で市場に卸す野菜を作っていたこともあり、八百屋を始めることにした。女だからと商売上なめられることもあったし、逆に親切にしてもらうこともあったが、何とか軌道に乗せ、働きに働いた。

 苦労もあったけど、今はここまでがんばってよかったなぁと思てますよ。人間苦労せな磨かれへんのです。人の心の痛み、思いやる心を学ばせてもらったのは、魚の棚で商売させてもらったおかげ。今も朝は4時に起きて、仏さん神さんに手を合わせて「今日も人さまのお役に立てますように」って、毎日お願いしています。皆さん、せめて月に一回ぐらいはお墓の草抜きに行って、ご先祖にも感謝してください。辛いこと、しんどいことがあっても助けてくれますよ。
 人は年を重ねただけで老いるのではなく、夢を失った時こそ老いるんやと思います。これからはこだわりを捨てて生きること、そして頂いた命に感謝しながら一日一日を大切に、自分の役割を果たしたいと思います。

うおんたなのお母ちゃんの子育て

 忙しさと精神的なストレスから10年間子どもができず、辛い思いをしていた瀧野さんだが、商売も落ち着き少し気が楽になったころに続けて5人の子が産まれた。八百屋を始めてからは朝の6時前から市場へ仕入れに行くようになったが、6ヶ月から小学校1年生まで5人の小さい子どもが寝ているところに「おとなしく寝といてなぁ」と両手を合わせてから家を出て行ったそうだ。不思議と困らせられることもなかったという。現在は長男が青果店を継いでいる。

子どもに勉強せぇと言うたことはなかったですねぇ。大学行きかったら勉強したらええし、勉強したくなかったら商売手伝ってくれたらええ、と話していただけです。子どもには感謝してます。今は孫3人が毎日、店の片づけを手伝いに来てくれますよ。お客さんに頭を下げて商売している親を見て、子どもはお金のありがたみとか、周りの人の苦労を学ぶんでしょうね。学校の勉強だけが大事やないんですよ。

前号のアンケートから たくさんのお葉書ありがとうございました

前号で感想が多かったのは特に巻頭の特集「海から食卓へ、おいしい魚が届くまで」、底引き網漁と一本釣り漁のレポートでした。改めて漁業の厳しさが伝わり、感謝して魚を味わいたいという感想をたくさんいただきました。
●漁業の仕事はとても大変だとは思っていたけれど、実際の仕事の内容を知って、本当に苦労が多くて大変な仕事と知りました。お魚はもともと大好きですが、これからはもっと感謝して食べようと思います。
●命がけのお仕事ですが、用心をして、明石といえば「魚の棚」の名を長くおかれるようにご活躍ください。くれぐれも危険予防に尽くしてください。
●漁師が早朝から船を出すことは知っていましたが、奥さんやご家族も同様に早朝作業とは、ご苦労の多い仕事と思いました。
浜のお母ちゃん直伝のレシピはタチウオでした。塩焼きだけじゃなく、こんなにいろいろできるんだ!と驚いた方が多かったですね。
●魚の棚で巨大なタチウオを見るたび「でかすぎる…」と買えませんでした。今度はホイル焼きにするべく、でっかいのを買ってみたいです。
●5歳の息子はタチウオの鋭い顔つきにビックリ。でもおいしい!と食べていました。私は小骨が多く、めんどくさいな…と思っていたところだったので、これを読んで、また調理してみようと思いました。
その他、商店街への感想やイベントのアイディアまでいただきました。
ありがとうございます!
●いつも工夫を凝らして魚の棚を紹介してもらって楽しく読ませてもらってます。地産地消、最近の心無い食品の出回り方に胸が痛いですが、ピチピチの魚と出会うとホッと救われる思いです。
●最近は食品を買うときに産地・原材料をすごくチェックするようになりました。魚も加工された外国の冷凍魚を買えば調理も簡単かもしれませんが、せっかく明石に住んでるんだし明石産の魚を選んで買おうと思いました。