親たちの汗が眩しい夏の棚
昭和41年、私は、魚の棚で3代続いてきた豆腐屋の長男(姉1人弟3人の5人兄弟)として生まれました。当時はいざなぎ景気の真っただ中、魚の棚も活気に満ちていたようです。我が家も豆腐屋に飽き足らず、2号店として八百屋(今の金引青果)をオープンさせる繁盛ぶりでした。そんな場所で大人たちの迫力にただただ圧倒されていた私は、家業を継ぐ気持ちはありませんでした。ただ年末だけは別で、家族従業員一丸となって働き商品は飛ぶように売れていく、そんな様に子供心にも興奮を覚えていました。大晦日、仕事を終えてから家族で見る紅白歌合戦、一夜明けて正月、前日とはうって変わって誰もいない通りを兄弟で占領して遊ぶ。今も続く魚の棚の原風景が好きでした。
豊穣の恵みに酔いし秋の棚
そんな私に転機が訪れました。受かっていた公立大学には行かず、学費の高い私立大学への進学を決めた私、親への申し訳なさから、当時母が切り盛りしていた金引青果を手伝いはじめました。
最初はいやいやながらも、徐々に商売に引き込まれ、売上はどんどん伸びました。この頃の魚の棚は、魚屋さんを中心にまさに好景気、今に続くイカナゴブームもこの頃から始まったのではないでしょうか。アーケードも一新され、同時期に結成された「魚の棚青年会」は新時代の到来を予感させられました。私も最若手のメンバーとして参加し、「日本一長い巻きずし」や「フラッグギャラリー」などの大きなイベントを成功させる先輩方のパフォーマンスに魅了されました。ゴルフやスキー、花見などで親睦も深まり、時にはイケナイお遊びも(私は参加しておりませんが)していたような(笑)。
阪神大震災、結婚そして父親の死を5か月の間に経験した平成7年、正式に金引青果を継ぎ、八百屋の店を現在のセルフ式に変えたことで、売上はさらに伸びました。いい時代でした。だれもがこんな時がずっと続くものと信じていました。いやそう願っていたのかもしれません。
雪山に道見失い冬の棚
三人の娘に恵まれ、嫁さんと二人三脚でがんばり、店は店舗兼住宅となり、さらに隣地を買って増床するなどすべては順調に思えました。しかし、魚の棚を取り囲む環境は大きく様変わりしました。
郊外型あるいは駅チカ駅ナカ型スーパーの進出、ダイエーの撤退と続き、明石駅南側は荒廃し、明石大橋開通によって淡路島への玄関口という地位も奪われた魚の棚、お客様は減っていきました。さらにライフスタイルの変化も追い打ちをかけます。この頃にはかつての青年会メンバーが商店街の中枢を担うようになっていましたが、あの団結はどこへやら、商店街内の風通しも決していいものではありませんでした。時代の波に呑まれて、何人もの先輩方が魚の棚を去っていきました。
私の店も売り上げが低迷、いつの間にか袋小路に迷い込んでいました。店と魚の棚は運命共同体、そんなわかりきったことを突き付けられました。
この時期、私の心の空腹を埋めてくれたのはPTA活動でした。商売の世界とは全く違う人々との交流は新鮮であり、これまで己の商売のみ見て生きてきた自分をあらためて知ることになりました。
若き血が根雪を溶かす春の棚
苦難の時代を経て、見えてきた光、それは「明石焼き」に代表される観光客の増加、そして現状を憂える若い力でしょうか。昨今のB級グルメブームに乗り、魚の棚もさながら「明石焼き通り」などと称されるようになり、土日を中心に新たな客層を獲得しました。業種変更して成功する店も現れ、飲食店を中心に活況を取り戻しつつあります。
そんな現状に対応すべく私の店も昨年、大規模な改装に踏み切りました。必ずいい方向に導いてみせます。
魚の棚の主な顔ぶれもさらに若返り、気が付けば、私もだいぶ上の世代になっていました。多少は商店街全体のことも考え始めていた私は、そんな若いメンバーに突き上げられるように理事長に就任しました。理事長になって感じたこと、それは、ここで商売をしている方々がホントに魚の棚が大好きだということです。単なる仕事場ではない、「浪漫」を魚の棚に感じているのではないでしょうか。こんな素敵な仲間と一緒に夢を見続ける、そんな街づくりのお手伝いがしたい、なんて言うとカッコつけすぎでしょうか。でもそこで働く人々が夢を見ることができない商店街、そんな街ではお客様に夢を売ることはできないのではないでしょうか。
季節の移ろい同様、魚の棚も色を変えながら今日の姿になりました。「魚の棚」の四季を愛でる心を持ち続ける「私」でいたいと思います。
金引青果店主 魚の棚西商店街振興組合理事長 瀧野幹也
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