明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙


当時、中心となって活躍されたこじまの小島さんと魚常の稲垣さんにお話をお伺いしました。

 平成八年までは商店街で毎年六月に開催していた「チャリティーセール」以外、主だったイベントは行っていませんでした。その当時、明石公園では兵庫県主催の「ふれあいフェスティバル」というイベントが開催されていました。
その中、商店街の中でも明石公園に来ている人を何とか魚の棚に来てもらえないだろうか?「商店街で何かせなあかんわ!」という声があがりましたが、月一回の商店街理事会では、新しい取り組みについてのアイデアも生まれず意見も出ませんでした。そこで出来たのが商店街の有志が集まり、思いつきで何でも話ができる「わいわい倶楽部」が誕生しました。毎晩のように集まってはよく話し合ったものです。「こんなんどない、あんなんどない?こんな事したら面白いんじゃない!」そんな話題の中から生まれたのがこのイベントでした。



ギネスに挑戦200メートルあなごの巻き寿司

 一回目は「穴子巻き寿司」二回目は二年後に「いかなご巻き寿司」で最長の新記録でギネスに挑戦という目標をたてて開催しました。会場は魚の棚商店街の端から端を少しはみ出た形、約200メートルの長さです。一番苦労したのは、その当時、店舗前の陳列の飛び出しについて規制が厳しくなく守られていなかった事です。(現在では陳列ラインを設け各店舗きっちりと守られています)各店ばらばらの陳列のはみ出しがあった為、会場を商店街の通路としたこのイベントでは大きな問題でした。イベントを開催するためには陳列を引っ込めてもらわないと開催できない。各店舗に協力していただくしかない!そこで一軒一軒お願いして廻る事になりました。お願いして廻るときに、私たちの後ろで当時の理事長と重鎮にニコニコして立ってもらい(見えない圧力を使って(笑))全店にお願いをして廻りました。きっと店からいうと引っ込めたら商売ができひんというのが本音だったろうと思います。そして当日の朝、商店街に行ってみると、なんと全店陳列を引っ込めてくれているではありませんか!驚きとうれしさで感激したことを覚えています。
食材のシャリは中央食品さんにお願いし、のりは林崎漁連にお願いし、焼き穴子は大善さん・林喜にご提供していただき、卸売り市場にはキュウリは巻きやすい真っすぐなものをより安くと無理なお願いをした。巻き寿司を巻く「巻きす」は、通常の「巻きす」だと巻きにくいと日よけのすだれを切って糸をつなぎ浪花さんに作っていただきました。いろんな方々の力を結集して準備をしていきました。
開催までの試作実験では一回目、浪花さんのカウンターで2mを巻いてみる、その次は少し長く商店街中央で10m巻きの実験も行いました。
当日は巻く応援指導として知り合いの料理人や寿司屋の皆さんに来ていただき会場に散らばってもらい指導を行っていただきました。また日新信用金庫の職員の方々(今では考えられない事ですが)、女性の会の方々、あらゆるところにお願いをして開催しました。本番の進行用に巻くときの予定表からブロック分けの人員配置も決め、出来る限りの準備を行いました。
商店街の中央でハンディマイクのかけ声のもと、いっせーので巻き上げました。
後でわかった事ですが、この当時ギネス登録は食べ物はNGで、最終的に登録は認められませんでした。

もう一つのイベント…
魚の棚フラッグギャラリーなんと賞金100万円


 優秀賞金一〇〇万円をつけ、全国から94作品もの応募があり、力作も多く中にはプロの方からの応募もありました。集まった作品は、約一年間アーケードに展示をさせていただきました。
明石大橋の開通記念ということもあり商店街で一〇〇万円という多額賞金を出しました。このフラッグギャラリーのイベントは、一年前から魚の棚で年末年始に実施した大漁旗の飾り付けのイベントが原型となりアイデアが出たものです。大漁旗の飾り付けは現在も恒例行事として年末年始に行っています。
どのイベントも、みんなが一つの目標に向かう事の素晴らしさを実感したイベントとなりました。イベントを開催してもお客さんとの話題にはなりますが、直結して売り上げに結びつかない現実もあります。しかし、そこから生まれるお客様とのコミュニケーションや繋がりが、私たちにとって何よりの喜びなのです。
 これからも地域の皆さんの笑顔を楽しみに、面白い事をまじめに取り組んでいきますので、ぜひ、地元の商店街へ足をお運びください。また、商店街への要望、ご意見がございましたら、どしどしおっしゃってください。みなさまにとってよりよい市場でありたいと願っています。




 出征を経験し魚の棚ひと筋で理事長を務めた父、自らを「地獄の八丁目」に嫁いできたと称した母。そんな両親のもと、魚の棚で生まれ育ち父の跡を追うようにこの世界に飛び込み理事長となった私。そんな「私」と「魚の棚」のグラフィティ(双曲線)をたどってみました。

親たちの汗が眩しい夏の棚
 昭和41年、私は、魚の棚で3代続いてきた豆腐屋の長男(姉1人弟3人の5人兄弟)として生まれました。当時はいざなぎ景気の真っただ中、魚の棚も活気に満ちていたようです。我が家も豆腐屋に飽き足らず、2号店として八百屋(今の金引青果)をオープンさせる繁盛ぶりでした。そんな場所で大人たちの迫力にただただ圧倒されていた私は、家業を継ぐ気持ちはありませんでした。ただ年末だけは別で、家族従業員一丸となって働き商品は飛ぶように売れていく、そんな様に子供心にも興奮を覚えていました。大晦日、仕事を終えてから家族で見る紅白歌合戦、一夜明けて正月、前日とはうって変わって誰もいない通りを兄弟で占領して遊ぶ。今も続く魚の棚の原風景が好きでした。

豊穣の恵みに酔いし秋の棚
 そんな私に転機が訪れました。受かっていた公立大学には行かず、学費の高い私立大学への進学を決めた私、親への申し訳なさから、当時母が切り盛りしていた金引青果を手伝いはじめました。
 最初はいやいやながらも、徐々に商売に引き込まれ、売上はどんどん伸びました。この頃の魚の棚は、魚屋さんを中心にまさに好景気、今に続くイカナゴブームもこの頃から始まったのではないでしょうか。アーケードも一新され、同時期に結成された「魚の棚青年会」は新時代の到来を予感させられました。私も最若手のメンバーとして参加し、「日本一長い巻きずし」や「フラッグギャラリー」などの大きなイベントを成功させる先輩方のパフォーマンスに魅了されました。ゴルフやスキー、花見などで親睦も深まり、時にはイケナイお遊びも(私は参加しておりませんが)していたような(笑)。
 阪神大震災、結婚そして父親の死を5か月の間に経験した平成7年、正式に金引青果を継ぎ、八百屋の店を現在のセルフ式に変えたことで、売上はさらに伸びました。いい時代でした。だれもがこんな時がずっと続くものと信じていました。いやそう願っていたのかもしれません。

雪山に道見失い冬の棚

 三人の娘に恵まれ、嫁さんと二人三脚でがんばり、店は店舗兼住宅となり、さらに隣地を買って増床するなどすべては順調に思えました。しかし、魚の棚を取り囲む環境は大きく様変わりしました。
 郊外型あるいは駅チカ駅ナカ型スーパーの進出、ダイエーの撤退と続き、明石駅南側は荒廃し、明石大橋開通によって淡路島への玄関口という地位も奪われた魚の棚、お客様は減っていきました。さらにライフスタイルの変化も追い打ちをかけます。この頃にはかつての青年会メンバーが商店街の中枢を担うようになっていましたが、あの団結はどこへやら、商店街内の風通しも決していいものではありませんでした。時代の波に呑まれて、何人もの先輩方が魚の棚を去っていきました。
 私の店も売り上げが低迷、いつの間にか袋小路に迷い込んでいました。店と魚の棚は運命共同体、そんなわかりきったことを突き付けられました。
 この時期、私の心の空腹を埋めてくれたのはPTA活動でした。商売の世界とは全く違う人々との交流は新鮮であり、これまで己の商売のみ見て生きてきた自分をあらためて知ることになりました。

若き血が根雪を溶かす春の棚
 苦難の時代を経て、見えてきた光、それは「明石焼き」に代表される観光客の増加、そして現状を憂える若い力でしょうか。昨今のB級グルメブームに乗り、魚の棚もさながら「明石焼き通り」などと称されるようになり、土日を中心に新たな客層を獲得しました。業種変更して成功する店も現れ、飲食店を中心に活況を取り戻しつつあります。
 そんな現状に対応すべく私の店も昨年、大規模な改装に踏み切りました。必ずいい方向に導いてみせます。
 魚の棚の主な顔ぶれもさらに若返り、気が付けば、私もだいぶ上の世代になっていました。多少は商店街全体のことも考え始めていた私は、そんな若いメンバーに突き上げられるように理事長に就任しました。理事長になって感じたこと、それは、ここで商売をしている方々がホントに魚の棚が大好きだということです。単なる仕事場ではない、「浪漫」を魚の棚に感じているのではないでしょうか。こんな素敵な仲間と一緒に夢を見続ける、そんな街づくりのお手伝いがしたい、なんて言うとカッコつけすぎでしょうか。でもそこで働く人々が夢を見ることができない商店街、そんな街ではお客様に夢を売ることはできないのではないでしょうか。
 季節の移ろい同様、魚の棚も色を変えながら今日の姿になりました。「魚の棚」の四季を愛でる心を持ち続ける「私」でいたいと思います。

金引青果店主 魚の棚西商店街振興組合理事長 瀧野幹也

 
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