明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙



私は、商売を継ぐことは考えていなかった!
 
 実家は魚屋で、親の仕事を見て育ったが、魚屋にまったく興味が無かった。自分が朝早く起きて仕事をするなんて考えられなかった。そんな中学生時代の技術家庭教科のなかで製図のトレースをする時間が一番好きだった。高校に入って小遣いほしさに、バイトとして店を手伝ことがあったが、店頭販売の手伝いで魚の腹を開けるとか、頭を落とすとかまったく魚を触ることも無かった。両親は明石の店の上で寝泊りし、僕と姉は、舞子の家で暮らしていた。兄弟は姉が2人、男は私一人だったので普通だと私が家業の魚屋を継ぐのはあたりまえだったが、商売にまったく興味が無く、自分の一番好きな事をしようと大学に入った。親に相談せず、勝手に大学を決め、就職先も自分で決めた。

大学に入学そして就職…
 
 大学は関西大学の工学部を専攻し卒業をした。そして、大手メーカーのトラックのシャーシー部分を製造している金型の特殊メーカーに入社した。サラリーマン時代は横浜の寮に入り、勤め先は藤沢にあった。希望は、学んできた設計部門に行きたかったが、残念ながら希望はかなわず、現場の指示母体である生産管理化に回された。その部門というのは、毎日、各課を集めて会議をする部署で、次のプロジェクトについて生産体制から人員配置まですべてを決める事を行っていた。
 入社してすぐ、4ヶ月の研修を経て、200人のスタッフをまとめ上げる会議の進行を任された。初めは先輩がサポートしてくれたが、一ヶ月も経つと、自分ひとりがまとめ上げていかなくてはならなかった。初めはプレッシャーで嫌で怖かった事を覚えています。自分が1つでも指示ミスをすれば、200人がバラバラになってしまう。この時代は夜勤があり、3交代制24時間会社が動いていた。ある日、24時間動いているラインの部品をきらすミスをした。部品が無いことでラインが止まり、会社に数千万円の損失を出してしまう。夜中、乗用車で横浜から埼玉まで部品を取りに行ったことがある。 しかしこの時期、一番楽しかったのは親元を離れ、なんでも自由にできたこと。

ある日、親父が迎えにきた
 
 サラリーマンになって3年目、ちょうど仕事もおもしろくなってきたころ、夏の日曜日の晩8時ごろ。いきなり寮に親父が面会にやってきた。何のコンタクトも無くいきなりきたのだ。上司に時下談判してでも連れて帰る、上司のところに連れて行けと言うのだ。今は日曜日の午後8時、連れて行くこともできず、明日に連れて行くとなだめ、その日は寮に泊まらせ、親父の考えを聞いた。そこまで言うんやったら、と帰ることを決意した。

魚屋を手伝うため明石に戻るが苦労の連続
 
 その当時、親父は明石卸売市場が出来ることに反抗し、魚の棚を離れず商売を続けていた。しかし、結果的に市場がスタートすると、仕入れ客は市場の方へ買出しに行ってしまい、半年間がんばったが、54年の暮れに卸の仕事は閉めることになった。味噌漬けの小売は継続していたが、その年が明けてまもなく、親父は亡くなった。
 東京から帰ってきて一年は経っていたが、仕事は気が入らず、魚のさばき方もわからない状態だった。親父が倒れたと同時にお袋が仕事をしなくなった。そんな折、先輩が「鰆のおろし方教えたるから、店に来い」と言われて、行くことになった。教えてもらうというよりは、スパルタ教育そのものだった。ほぼ毎日通った。2ヶ月ぐらい経つと何とか、凍った鰆をバラバラにすることが出来るようになった。卸売市場が忙しいことから、仲卸しをしていた義理のお兄さんに手伝いにこいやと言われ、行くことになった。もちろん、実家の魚の棚のお店も掛けもちで。このころから朝は卸売り、昼間は魚の棚で小売をする生活が始まった。市場では、ねこ引き(物を運ぶ)の仕事をした。朝4時半に競りが始まるので、4時には市場に行き、終わると魚の棚で午後7時頃まで小売の仕事をした。このねこ引きと言う仕事を3年間続けた。競り落とされた商品をお客さんの車に積む仕事。周りの人は、「大学まで出てそんな仕事して悲しないんか」という人もいた。しかし、今はこれしかできひん、これしかないやん、と思った。でも、このねこ引きも頭を使わなかったら出来ない仕事に気づいた。お客さんの車にいかにしてたくさん積むかだ。そうする工夫を重ねていると、お客さんから積んでくれとリクエストを貰うこともあった。
 同じ事をやるにしても、人に負けたくない、同じねこ引きでもきっちりとやりたいと思い、それを糧に仕事をやっいていた。3年も経つと自分の下にも新人ができ、いつまでもねこ引きというわけにもいかず、次は水洗い(魚をさばく)をやれと言われた。うまく出来るわけわけもなく、無理やりやらされた。ところが巡り合わせというか、淡路から来ていたカンカン屋(行商人)さんが、めんどくさがりやで(笑)、三枚おろしで骨にまだ身が残ろうがかまへんというのだ。仕事でありながら、この人の商品でさばく練習を毎日続け5年間やった。そんなこんなで、市場に行く時間も朝3時に行くようになった。
 ねこ引き3年、水洗い5年、8年も経つと次は魚買ってみるか(競り落としてみるか)と言う話になった。魚を売り残すことが出来ないプレッシャーもあったが、自分で値段をつけて買う面白さ、魚に値段をつけて売る面白さが勝ち毎日が楽しかった。

商店街にかかわり始めた
 
 明石に帰ってきて商売をはじめて10年経つか経たないかの昭和62年、今まで商店街の人とは繋がりがまったくなかった。そんな折、商店街の若手を集め、青年会を作るという話が持ち上がり参加することになった。現在のアーケード工事について勉強会をしたり、完成のイベントを企画し、実施もしました。その頃から、商売一筋だったが商店街の事を考えるようになっていった。あなご屋の林さんが会長だった頃、健康福祉センターで料理教室もやった。その時は、浪花さんから食器を借りて皆で工夫して実施した。年末の飾りつけの大漁旗もやり始めた。いろんなイベントを実施しました。その中でも印象的だったのが「穴子の巻き寿司イベント」。試しに5メートルの巻き寿司に挑戦しようとしたら、誰も手伝ってくれないと思ったら、普段、話したことも無いお店の人が来てくれて、手伝ってくれた。「魚の棚ええやん!皆やる気満々やん。」と嬉しく思った。
 今では商店街も世代交代が進み、私も古株の一員となりました。今の若い人たちもお客さんに喜んでお買い物をしていただける商店街づくりを目指し日々努力しています。
ぜひ、そんな目線でお買い物を楽しんで頂ければと思います。
有限会社魚常 店主
稲垣年彦(60歳)

 






鯛(タイ)
 紅葉鯛の名を持つ最高の味。刺身、塩焼き、鯛ちりで。
瀬戸内の鯛は1年で最も脂ののる今が最高潮のおいしさ。
目が澄んでいて色鮮やかなものを選ぶと良い。
鯛の皮にはビタミンB2が多く、目や皮膚などを健やかに保つ働きがある。

太刀魚(タチウオ)
 脂ののりきった旬の味。刺身で味わうなら今!
明石の浜では、立ち泳ぎで餌を捕る姿から立魚という書き方が一般的。
11月までの旬の時期、刺身でも大トロのように醤油をはじくほど脂がのっていて旨い。

栗(クリ)
 栗ごはん、煮物、渋皮煮に。短い旬を楽しんで!
収穫は10月の中旬ごろまで。皮につやがあり、丸くて重量感のあるものを選ぶと良い。
糖質と食物繊維、ビタミンCが豊富で、疲れやすい人や冷え性に最適。

松茸(マツタケ)
 焼き松茸に炊き込みごはん。豊かな香りを食卓に添えて。
キノコの中でも香りの王様はやっぱり松茸。
柄が太く弾力があり、ヒダが白く湿り気のあるものが上質。
国産を少量か、輸入品をたっぷり、あなたはどっち?




 
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