明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙



魚の棚の歴史を探り未来に残すため、過去を知る皆さんに集まって頂き、
現在知り得る歴史をひもといてみました。

  最高齢である洋食屋山陽亭の親父さん河内俊至さん大正十一年生まれ九十一歳、昭和十二年生まれの森本みどりさん、同じく昭和十二年生まれのアサヒ商事の名村弘司さん、昭和十七年生まれのヤマシタ電化の山下清人さん、昭和十九年生まれのこじまの小島憲基さん、昭和二十四年生まれ林喜商店の林祝雄さん、昭和二十八年生まれの魚常の稲垣年彦さんに出席して頂きましたが、河内さん以外はあまり実感がなく、親から聞かされた話、故岡本光男氏の資料を元にして、記憶をたどりながらお話しを聞かせていただきました。

 下記載の地図は、河内さんが昭和十年当時の記憶を元に平成十三年に作成された地図(下記地図)と名村さんの資料を元に再現した地図です。 明石も六回にわたる空襲で、人出で賑わった魚の棚も一夜明けると焼け野原になっていました。残暑の中、焼け残った古い材木、トタンを使いバラックを建て、商売を復活させました。唯一、戦火に耐えた「石畳」が昔を偲ばせ、復興への道しるべとなったそうです。戦後の混乱の中、物資の統制令がしかれ、あらゆる物が配給制となり、肝心の魚も自由販売が出来なくなりました。次第に統制も解除され、出漁すれば食べるだけの水産資源があり、物々交換や、魚を買い出しに来る人達を相手に商売が出来たそうです。
 昭和二十四年まで、駅前から魚の棚周辺まで、「自由市場」として露店がびっしり四八〇軒のお店が立ち並び、住民達は一生懸命に生きて行くことに毎日努力していました。


 そして昭和二十四年二月二十日早朝、大きな出来事が起こりました。その当時の自由市場から出火し、錦江町・桜町・鍛冶屋町・細工町(現在の魚の棚東部)・東魚町の一部が猛火に包まれました。これが「明石大火」と呼ばれた大火災です。住民達は、痛恨の極みなき涙と共に再建への力強い第一歩を踏み出しました。そして、この大火災の後、明石市の都市計画により、立ち退き、替地により町並みが一変したとのことです。
 新生明石駅前と魚の棚東部が新しく誕生しました。この区画が現在の魚の棚に最も近いカタチになったそうです。昭和二十五年には、鮮魚店が五?六軒、蒲鉾店が五軒ほど、穴子店が三軒余りでスタートされたそうです。
明石大火によって焼け野原になった駅前付近
昭和25年ごろの魚の棚
        
 昭和二十六年になると道路整備が進み、アスファルトになりました。買い物に来られた方、自動車の通行が便利になり、特に魚の棚の特徴である、魚介類の運搬に非常に役立ったそうです。また、この時代、商品が店頭に並べれば飛ぶ様に売れ、売れて売れて面白い様に売れた時代だったそうです。中には、独自で毎月お客様をバスで宝塚劇場に招待していたお店もあったそうです。また、魚の棚の専売である鮮魚は、早朝は卸しとして大量に売れ、また昼からは小売りとして近隣の台所の役目を果たしていました。まさに一日中、活気と賑わいでお店は非常に繁昌したそうです。現実、よく昔の方は儲かったという声をよく耳にします。

昭和33年ごろの魚の棚

 今回は昭和の一部の時代を取り上げましたが、まだまだ歴史の情報は深く、今後も取り上げていこうと思っています。
そこで皆様がお持ちの資料や情報を募集いたしますのでご協力をお願いいたします。
 次回パート2をお楽しみに…


山陽亭 河内俊至さんが当時の記憶を元に描かれた昭和10年当時の細工町の地図
※5月末まで魚の駅で展示しております


<今回ご協力いただいた方々>
細工町弁天会 元会長
河内俊至さん(91歳)
細工町弁天会 会長
山下清人さん(71歳)
こじま 店主
小島憲基さん(69歳)
魚常 店主
稲垣年彦さん(60歳)
       
森本みどりさん(76歳)
アサヒ商事 店主
名村弘司さん(76歳)
林喜商店 店主
林 祝雄さん(63歳)




 
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