明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙
風景をたどる 昔のうおんたな
江戸時代に宮本武蔵の町割り事業から誕生したと言われる魚の棚。今回は明石のまちの台所として発展してきたうおんたなの、昭和、戦後から平成までの生の歴史を知る人たちに話を聞きました。写真とともに、かつての風景を思い描いてみましょう。

●昭和30〜40年代 


魚の棚は卸売り 市場でもあった
 明け方5時には魚の棚に明かりが灯り、にぎやかになる。明石港で前もん(明石海峡周辺の魚)のせりが始まり、6時には神戸の中央市場から筋もん(全国各地の魚)の仕入れが帰ってくる。両方が揃う7時ごろから、9時ごろまでは卸売の商売。カンカン屋と呼ばれる無店舗の魚屋が、淡路から缶をかついで魚を仕入れに来て、神戸や大阪へ売りに行く姿も多かった。今では考えられないが、漁師が直接に魚を持ち込み、マージンを払って魚の棚の店先のスペースを借り、自分で値をつけて売るということも多かった。
 当時は魚の棚の東西の大通りより南のあたりにも店舗が並んでいた。そして魚屋は荷受であり仲卸であり、小売でもあった。「管亀」は大通りではなく南北の筋に店舗を構えていたので、魚屋を相手に商売をする仲卸を主としていた。東西の大通りに店を構える魚屋には、そのメリットを生かして小売と仲卸の両方を行う店もあった。

昭和49年。神戸の中央市場で仕入れた筋もんの魚を車に積んで帰ってくる。下ろす端から飛ぶように売れた。(ふるさと明石写真帳より抜粋)

昼からは再び、せりと小売の商売で活気づく
朝の卸売りの商売が終われば、昼は12時から再び明石港でせりが始まる。これが今も残る明石独特の流通、昼市だ。魚の量は今と比べものにならないほど多く、活気に満ちていた。とくに、年末の魚の棚は通る隙間もないほどごった返したという。
 今の時代は魚をさばける人が少なくなり、魚の棚の鮮魚店でも希望に応じて料理(下処理)して販売する店がほとんどだが、当時は丸のままの魚でもよく売れた。それだけ魚を扱える消費者が多かった 。


昭和49年。明石港の市で仕入れた前もんの魚はトロ箱で自転車に積んで、大急ぎで店へと運ぶ。(ふるさと明石写真帳より抜粋)



●昭和53年 

仲卸で新天地に行くか、小売で勝負するか魚の棚の魚屋が大きな選択を迫られた年
 昭和52年に藤江に明石市の公設卸売市場ができ青果部門が、翌53年には水産部門が営業を開始した。この時、魚の棚から「管亀」のように仲卸を主とする魚屋は一斉に新しい卸売市場へと移転した。以後、魚の棚で行われていた仲卸業はこの公設卸売市場で行われることとなり、魚の棚に残った魚屋は小売専門店として存続した。
 昭和53年を境に、魚の棚商店街の風景はがらりと変わった。かつての朝のにぎわいは消え、大勢が住み込みで働いていた暮らしの形も徐々に少なくなっていった。昔の魚の棚は労働環境としては過酷だったが、その反面、活気を極めた商店街の風景を懐かしがる声も多い。

藤江の明石市公設地方卸売市場

昭和49年、明石港魚市。漁獲量も多く、現在とは比較にならないほど相当なにぎわいだった。(ふるさと明石写真帳より抜粋)

昭和30年代後半に埋め立てが始まるまで、白砂青松の風景が美しい中崎海岸周辺では「欽明館(きんめいかん)」や「衝濤館(しょうとうかん)」といった料理旅館が人気を博しました。

昭和53年以前の魚の棚が担っていた3つの機能
荷受(にうけ)=漁師さんから魚を引き取る
仲卸(なかおろし)=小売店向けに販売する
小売(こうり)=一般消費者向けに販売する

「管亀」菅野照雄さんからお話をいただきました
 明治30年に初代の菅野亀太郎さんが12歳の時、大八車に魚を積んで売ったのが「管亀」の始まり。三代目の照雄さんは昭和53年まで魚の棚に店舗を構えていたが、以後は仲卸として明石の中央卸売市場に移転、現在も営業している。

 
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