明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙
昭和の時代 魚の棚に生きた男と女
活気を極めた昭和20年代後半から40年代のうおんたなを懐かしがる声も多いその反面、当時の労働環境はかなり厳しいものでもありました。子育てと仕事、人生の大部分を魚の棚で過ごしたおふたりに、その暮らしと人生について語っていただきました。

卸売と小売を兼ねる
魚屋の長時間労働

 昭和20年代後半は、戦後の物資・食料不足がようやく解消されて「店に並べれば何でも飛ぶように売れた」と言われるような時代。魚の棚は戦火で焼けた後、昭和24年には駅前の大火の被害にも遭ったが、そこから復興して道路の拡張やアスファルト舗装がされ、自転車や自動車での鮮魚の運搬・流通もスムーズに行われるようになった。
諸々のことが重なり、菅野さんが10〜20代を過ごした当時の魚の棚は空前の活気だった。
 魚屋は正月の1日、盆の1日だけが休みで、朝から晩まで1年じゅう働いた。朝は3時に起きて店の準備を始め、明石港で5時から開かれる朝市にせりに行く。せり落とした魚は自転車で店に運んで、6時半から9時ごろまでは卸売の商売。それが済んだら今度は再び12時から昼市が始まって、一般のお客さんや料理屋に売る。小売の商売は夕方6時ごろまで行った。

魚の棚・立町にあった昭和37年ごろの「菅亀」店頭風景。
朝7時ごろ、さあ商売が始まったという時間帯。
(菅野照雄さん提供)

 そんな生活でも、若いころは思いっきり遊んでました。朝から働いて、夜5時半から9時までは夜間の学校に行き、終わったら人丸のダンスホールへ行く。僕は社交ダンスがうまいんやで。ダンスに玉突き、アイススケート、マージャン。これが4種の神器と言われとった。自慢やないけどきれいな女の人ばっかりおったなぁ、そやから結婚する気にならんかった。三宮に行って夜も寝んと遊んどったけど、そんな日は朝、親父より必ず早く起きて仕事に行ったから文句を言われたことはなかったな。えらい目をいっぱいしても、僕の場合は楽しいこともいっぱいありましたな。

 辛い仕事やから従業員も集まらへん。親戚筋から連れてきても、辛いから辞めると言って何べんも帰ってしまう。長男は考える余地もなく跡継ぎと決まっとったんやけど、嫁さんに来てもらうのも大変です。「魚の棚はええとこや」と言いくるめられてくる田舎の人が多かった。
 新婚当初は、相生町に新築で家を建てたのに、忙しくてそこへ寝に行く時間が惜しかった。大家族のごはんもせないかん、店も手伝わないかん、帰る暇もなくて魚の棚の狭い家で10年ぐらい暮らしてました。家内は先代のおじいさんが惚れて連れて来たんやけど、笑顔がええんです、話好きやしね、ごっつい優しい。結婚して46周年になるけど1回もケンカしたことないんですよ。家内が怒ったとこを一回も見たことないんです。


   
嫁いだ先は「地獄八丁の 魚の棚」  
「農家に生ま れてのんびり育った」という瀧野さん。嫁いでみれば、次の日からすべてが手作業の豆腐屋での重労働が待っていた。家族の誰よりも早く、夜中の0時半に起きて豆腐の仕込みを始めるのは嫁の役目。住み込みの従業員と家族の食事づくり、それも薪の窯に火をくべることから始まる。もちろん洗濯も手で、たらいと洗濯板でゴシゴシと洗う。これらの家事は店の仕事の合間に行っていた。ようやく寝床に就けるのは21時で、また3時間もすれば起きなければならない。定休日はなく、休みといえば正月の3が日とお盆の2日間だけ。こうして仕事と家事に追われる生活が続いた。他の商売でも忙しさに大差はなく、魚の棚では嫁のなり手を探すのに苦労していた。そのため田舎から女子を連れてきて結婚を仲介する業者のような人もいたという。

 21歳で嫁いだその日、近所の魚屋のお姑さんに「あんた、こんなとこよう来たなあ、生き馬の目を抜くようなところやで。足元の明るいうちにお帰り」って言われました。えらいこと言わはるなァってその時は思ったんやけど、それだけ魚の棚に嫁ぐということは大変なことやったんです。もちろん実家に帰ろうと思って荷物まとめたことも何回もありました。「知って来たか知らずで来たか、地獄八丁の魚の棚」、そんな風に言われるほど、魚の棚の暮らしは厳しかったですねェ。

女手で新たな商売にチャレンジ
 瀧野さんが豆腐店とはべつに自ら店を開いたのは昭和40年ごろのことで、豆腐屋も機械化し、朝は4時起きと少し楽になったところ。実家が農家で市場に卸す野菜を作っていたこともあり、八百屋を始めることにした。女だからと商売上なめられることもあったし、逆に親切にしてもらうこともあったが、何とか軌道に乗せ、働きに働いた。

 苦労もあったけど、今はここまでがんばってよかったなぁと思てますよ。人間苦労せな磨かれへんのです。人の心の痛み、思いやる心を学ばせてもらったのは、魚の棚で商売させてもらったおかげ。今も朝は4時に起きて、仏さん神さんに手を合わせて「今日も人さまのお役に立てますように」って、毎日お願いしています。皆さん、せめて月に一回ぐらいはお墓の草抜きに行って、ご先祖にも感謝してください。辛いこと、しんどいことがあっても助けてくれますよ。
 人は年を重ねただけで老いるのではなく、夢を失った時こそ老いるんやと思います。これからはこだわりを捨てて生きること、そして頂いた命に感謝しながら一日一日を大切に、自分の役割を果たしたいと思います。

うおんたなのお母ちゃんの子育て
 忙しさと精神的なストレスから10年間子どもができず、辛い思いをしていた瀧野さんだが、商売も落ち着き少し気が楽になったころに続けて5人の子が産まれた。八百屋を始めてからは朝の6時前から市場へ仕入れに行くようになったが、6ヶ月から小学校1年生まで5人の小さい子どもが寝ているところに「おとなしく寝といてなぁ」と両手を合わせてから家を出て行ったそうだ。不思議と困らせられることもなかったという。現在は長男が青果店を継いでいる。

子どもに勉強せぇと言うたことはなかったですねぇ。大学行きかったら勉強したらええし、勉強したくなかったら商売手伝ってくれたらええ、と話していただけです。子どもには感謝してます。今は孫3人が毎日、店の片づけを手伝いに来てくれますよ。お客さんに頭を下げて商売している親を見て、子どもはお金のありがたみとか、周りの人の苦労を学ぶんでしょうね。学校の勉強だけが大事やないんですよ。

 
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