卸売と小売を兼ねる
魚屋の長時間労働
昭和20年代後半は、戦後の物資・食料不足がようやく解消されて「店に並べれば何でも飛ぶように売れた」と言われるような時代。魚の棚は戦火で焼けた後、昭和24年には駅前の大火の被害にも遭ったが、そこから復興して道路の拡張やアスファルト舗装がされ、自転車や自動車での鮮魚の運搬・流通もスムーズに行われるようになった。
諸々のことが重なり、菅野さんが10〜20代を過ごした当時の魚の棚は空前の活気だった。
魚屋は正月の1日、盆の1日だけが休みで、朝から晩まで1年じゅう働いた。朝は3時に起きて店の準備を始め、明石港で5時から開かれる朝市にせりに行く。せり落とした魚は自転車で店に運んで、6時半から9時ごろまでは卸売の商売。それが済んだら今度は再び12時から昼市が始まって、一般のお客さんや料理屋に売る。小売の商売は夕方6時ごろまで行った。 |

魚の棚・立町にあった昭和37年ごろの「菅亀」店頭風景。
朝7時ごろ、さあ商売が始まったという時間帯。
(菅野照雄さん提供) |