林崎の漁師の家に生まれ、昭和25年に15歳で魚の棚の鮮魚店「かねき」で働き始めた藤原さん。使い走りをする「ぼんさん」の仕事から始めるが、親方の信頼を受け、24歳で店を譲り受けた。やがてタイミングよく魚の棚の景気は最盛期を迎え「かねき」は繁盛。その後、昭和53年に藤江の公設卸売市場ができると仲卸業を、相生町では活魚を常時確保する「明石活州」を始めるなど、事業を広げた。今は2人の息子に経営を任せ、のんびりと半隠居生活だ。ゴルフで日焼けした顔がはつらつとしている。 順風満帆といった感じの藤原さんだが、ただ自社の事業に力を注いできたわけではない。仲卸業を営む公設卸売市場では海産卸売協同組合の理事長を10年間務めた。「人をまとめるコツは、相手が誰であっても分け隔てなく本音で話をすること。それに四角四面はいかん、ええ加減に」。平成11年からは商店街の振興組合理事長としてその振興に努めた。商店街の中央あたりにある「魚の駅」もその成果の一つで、「お客さんに安心してお買い物に来ていただくにはトイレや休憩スペースを備えた施設が必要」という信念のもと、役所に掛け合うなど有志とともに奔走し、実現させた。
「食べたら出すのと同じで、金が儲かったらお返しする。恩返しの気持ちが大事なんや」。平易な言葉の中に、充実した人生の秘訣を語る。「満潮になると赤ん坊が生まれ干潮には人が死ぬ、と昔の人は言うたもんや。自然のサイクルというのはようできとる」。その中で生かされているのが人間。自分を育ててくれた魚の棚への恩返しは、また次の世代を育て、その営みを脈々と繋いでゆく。 |