明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙

 この夏、魚の棚商店街のアーケード改修工事が始まります。8月から取りかかり、年末までには装い新たに完成する予定です。現在のアーケードは二代目ですから、三代目のアーケード誕生というわけです。初めてアーケード街になったのが44年前。それ以前は青空の下にたくさんの商店が軒を連ねていました。そこで今回の特集では、そんな魚の棚の歴史と昔風景を辿ってみました。

魚の棚のはじまり。
 城下町づくりは約390年前、明石築城の開始と同時に町割りと設計が始まりました。町割りに采配を振るったのは剣豪・宮本武蔵と言われています。当時完成した15ヶ町のうち、東魚町は城の正面に最も近い場所にあり、鮮魚や練り製品の店が集められました。その西にある西魚町は塩干物の問屋と小売りの町で、干物屋町とも呼ばれていました。この東魚町、西魚町あたりが現在の魚の棚商店街の東西の通りになっています。元文年間(1736〜1741年)の頃には東西両魚町で鮮魚など生ものを扱う魚屋が56軒、干物とくに干鰯を売る塩干物の店が50軒あり、魚介関係だけで相当な数の店があったようです。
昭和三十五年頃
アーケードが出来る以前の魚の棚

石畳からアスファルトへ
 大正3年、土だけの道だった商店街に石畳が敷かれました。魚を扱うため多量の水を使うので、水はけの良い御影石がびっしりと敷き詰められ、早朝から下駄を履いて歩く足音が響いていたと言います。しかし昭和24年の駅前の大火の後、駅前地区の区画整理の際に撤去されてアスファルト舗装に変わりました。
一代目のアーケード
 神戸や明石の商店街で次々とアーケードが完成していた昭和36年、魚の棚センター街(現魚の棚商店街)にもアーケードが造られました。現在のドーム状のものと違い、直線的な屋根の形をしています。完成を祝って盛大なイベントも催されました。アーケードが完成したことで、それまでは傘と傘がひしめくような雨の日の買い物が、スムーズで快適なものになりました。

昭和三十年代
魚屋の店頭。何かの催し日らしく、ハッピ姿で記念撮影の写真

昭和三十六年頃
一代目アーケードが完成。地面はアスファルトだった

昭和五十年代
年末の賑わい。今では少なくなった魚の量り売りで、
買った魚は新聞紙でくるんで渡され、買い物かごなどに入れて持ち帰った

昭和五十年代
兵庫県の“善意の日(6月1日)”に因んで
毎年開催された“チャリティーセール”第一回の様子

昭和六十二年
二代目のアーケードが完成。
18年経った今年、老朽化のため改修することに


二代目のアーケードと鱗模様のタイル
 昭和62年には一代目のアーケード老朽化が進み、現在のアーケードである二代目のアーケードへと改修されました。それを機会に、翌年には地面のタイル貼り工事が施されました。タイルは扇形の素焼きのもので、魚の町らしく鱗の模様を全面に敷き詰めてあります。東西の大通りと東商店街の南部分に渡って、クリーム色のアーケードとタイル貼りが統一され、商店街のイメージが一新されました。

◆子どもたちの遊び場
 昭和52年に藤江に公設卸売市場ができるまで、他地域の鮮魚店と違って魚の棚の鮮魚店は仲買と小売りを兼ねていました。毎朝4時になると始まる威勢の良いセリが9時頃まで続き、その後は各店が小売りのための準備にかかります。ひとしきり午前中の小売りをした後、今度は明石港で水揚げされた昼網のセリが始まって、またピチピチの活け魚が店頭に並ぶという風でした。そのような生活なので、各商店の家族はほとんどが店舗の2階に暮らし、従業員も住み込みというのが普通。魚の棚は生活空間でもあり、子どもたちの遊び場でもありました。

包丁研ぎの仕草を真似る少年の足元はアスファルトで、
ろう石の落書きが見える。

商店街は子どもたちの遊び場でもあった。
木箱にまな板を置いて魚屋さんごっこ。

 

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