明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙

林義治商店店主
永井義治さん


大正7年生まれ、86歳。魚の棚の穴子専門店『林喜』の次男として生まれ、県立明石中学校(現明石高校)を卒業後、兵役へ。終戦後、林義治商店を開店。昭和46年から明石市会議員を2期務めた。
終戦後のうおんたなを見つめ、 生きてきた歴史の証人
 中国やインド洋・マンダバンで兵役を務めた永井さんは、28歳の時に終戦で明石へ戻った。「明石の駅へ降りたら町は焼け野原。港で船から火柱が上がっているのが見えた。銀座通りの西側では、衣類とか食料とかの闇市があったよ」。その後復興していく魚の棚では、『林喜』の穴子を仕入れに行く仕事をした。「朝3時に起きて自転車で港へ行き、たらいみたいな小さな舟で新浜(明石浦)へ買いに行く。その頃は漁師との直接取引で、目方を量って相談で値段を決めたもんや。生け簀の代わりに、かごに入れて海に一晩浸けておいてから、店へ持って行った」。
 商店街の東端の一角にはまだ店があまりなく、その手前から西の端までが石畳、国道(2号線)へ出る北側の道もまだできていなかった。その頃の魚の棚には今のようにいろんな業種の店はなく、魚の卸売りか蒲鉾、天ぷら、塩干ものぐらいだったそうだ。「仲買人が多いから、家族も従業員もみんな店の2階に住み込んで、一緒にごはんを食べてた。朝は早かったし、活気があったなあ」。30年前に藤江の公設卸売市場ができてから、魚の棚は仲卸から小売へと変わり、朝の市もなくなった。店舗の2階に住むという、それまでは当たり前だった暮らし方も今ではほとんどなくなっている。
 永井さんはその後独立し、林義治商店を構えた。サンマやアジを自分で開いて干物にして売ることから始め、塩干ものや魚の加工品を扱う店で、今も現役である。サンマは北海道や東北で水揚げされるが、現在、明石はサンマの開きの技術、加工量で日本トップクラスを誇る。その基礎を築いた1人が永井さんであったかもしれない。


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