明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙









2019年、明石城築城400年とともに魚の棚は設立400周年を迎える。
そこで今回は、【歴史を語り継ごう、インタビュー編うおんたな古今東西】
と題し、創業明治5年以来炭焼きあなごの伝統を守り続ける
「林喜商店」4代目、林祝雄さんに
「うおんたな」の歴史や想い出をお聞きしました。
(インタビュー:都あきこ)

林さん: 私は、中学生の頃から家業の手伝いを始めて、親父の見よう見まねで、穴子を焼いていた。暮れには子供達が小さい穴子を任されたりしてね。親父の焼き上がりを見て、
「こんな風に焼き上げるためには、どないしたらいいやろう。」と子供なりに考えて焼いてたよ。同じ火で同じ穴子を焼いても、人によって焼き上がりが違う。寿司屋でも誰が米を炊いたかわかるというだろう。それと同じだね。
その頃はお祖父さんが朝、炭の火を起こし、穴子を焼き始めた。今は17時には店を閉めるが、私が20歳頃までは、19時すぎまで店は開いていたよ。

都: その頃の「うおんたな」はどんな感じでしたか。

林さん
活気があった。私が12歳の昭和36年に銀座、本町商店街に続いて魚の棚初代アーケードができてお祭り騒ぎ。その時は石畳ではなく地面はアスファルトだった。
明石でも傘をささずに買い物ができるようになったとあって、通りは人で溢れていたよ。
東西だけでなく鮮魚店は、南北の道にもあって、仲買いと小売りの二枚看板を営む店が多かった。
休みは、ほとんどなく盆と正月だけだったが、月1回7日だけが休みになったのを覚えている。その後、月2回、1と15日が休みになり、昭和40年代には七、17、27日の「7」のつく日、月3日が休みになった。

都:
休みを取る暇さえないほど繁盛していたんですね。

林さん:
淡路からは、「カンカン部隊」と呼ばれるブリキを担いだ行商人が来ていたし、三木や小野方面、地方からも貸切バスで日常的に魚の棚に買いに来ていたのを覚えているよ。
基本的には、従業員は住み込みで働いていた。店頭、店の奥にみんなで食事する部屋、その奥が住み込みの部屋に分かれていたね。うおんたな自体が生活の中にあった。

なるほど。商店街は、生活と一体化していたんですね。
それから、昭和53年に明石市公設地方卸売市場に水産物部が開設され卸売部門が移転したんですね。

林さん
明石に公設卸売市場ができてから「うおんたな」は、卸売と小売りの二枚看板から小売り専門の魚の棚へ変わっていった。
その頃は明石の「前もの」の穴子もよく獲れていたね。今は、水揚げが少なくなった。漁獲量も今とは比べものにならないぐらい良かったね。

昭和60年代も「うおんたな」に勢いのある時代でしたね。昭和60年に東西商店街の振興組合が発足し、昭和62年に2代目カマボコアーケードが完成。翌年63年に魚の棚青年会が発足したんですね。

林さん
そう。それまでは、「明石センター街」、「魚の棚センター会」、「魚の棚南商店会」、「魚の棚商店街」、「錦通り商店会」の五つに分かれていた。それが前述三つは「魚の棚東商店街」に。後述2つは「魚の棚西商店街」の東西商店街にまとまった。
青年会も、会員相互の啓発、親睦のために発足したんだ。

青年会では、どんな取り組みをされたんですか。

林さん まずは、月1回若いもんで集まって講師をお招きして勉強会を開いたり、売り出しのイベント企画、ゴルフ会もあった。青年会主催で「いかなごの釘煮教室」や、「鯛の目方当てコンテスト」「ギネスに挑戦。200メートル巻き寿司」なんてこともして集客イベントを数多く手がけた。

工夫を凝らした面白い取り組みをされていたんですね。

林さん そういえば、市民会館中ホールで、淡路に居住していた作家の灰谷健治郎の講演会を開いたりもした。講演料をお渡ししようとしたら、灰谷さんが講演料はいらないって言ってくれたもんだから、灰谷健治郎全集を買って図書館に寄贈したりもしたな。

灰谷さん!いいお話ですね~。

林さん
みんなで一緒に汗を流して、自分たちで一から作りあげたイベントを運営し、やり遂げる醍醐味があったが、その頃の青年会のメンバーが今の理事会のメンバーになり、今は、青年会を継ぐ若い世代がいないのが現状。ほとんどイベント企画運営も業者に任せる時代になり、商店街の会員同士の付き合いも減ったように思う。今は今のやり方があるだろう。

今、「うおんたな」に思うことは何ですか。

林さん
いつまでも「うおんたな」は、「うおんたな」であり続けて欲しい。昔の人が「うおんたな」の名に値打ちを付けてくれた。昔は良かったというのは容易。「うおんたな」を時代に合う形で高めていく努力ができたらと。次の世代が先導して「うおんたな」を盛り上げて欲しいと願うよ。

明石生まれの私にとって、「うおんたな」は両親とよくおとずれた思い出深い商店街。ピチピチの生きた蛸を買ってきては、母が塩でしめて蛸料理を作ってくれました。昨年の大晦日にも家族で買い出しに来ましたが、人で溢れかえって歩けないほどの賑わいでした。正月の準備に人々が押しかけるのは、スーパーではなく、明石の新鮮な「前もの」の魚が手に入る「うおんたな」だからこそ。
400年を経た今も、市民に愛される「うおんたな」。いつまでも「うおんたな」が「うおんたな」であって欲しい。ファンの一人として切に思いました。林さん、貴重なお話をありがとうございました。

 

 
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