明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙





明石のまちが空爆の標的に
そして明石公園がB29の爆撃を受け死者多数

 明石は終戦の年、昭和二十年(1945年)一月十九日に初めての空爆がありました。これは兵庫県下で最初の本格的な空爆でした。当時、明石の西部にあった川崎航空機明石工場が標的になったものです。この空爆は三十分程でしたが、損害は甚大なものでした。


昭和20年1月19日の空爆で炎上する川崎航空工場

 そして六月には三度の空爆があり、その中でも六月九日の空爆では、明石公園で魚の棚の商売人を含め多くの方々が亡くなる空爆でした。その爆撃は、現在の明石市民病院の西側にあった防毒マスクを製造している軍事工場が標的となったものです。しかし、その流れ玉が明石公園に落ちたのです。魚の棚の人達は、空襲警報が鳴ったら明石公園に避難するように指示を受けていました。その日も空襲警報が鳴り、魚の棚の人達の多くは明石公園に逃げ込みました。しかし、残念な事にその人たちが犠牲者となったのです。大阪から疎開していたお店のお孫さんも公園に逃げて命を落とすこととなってしまったそうです。その時、魚の棚は爆弾の地響きと爆風がすさまじかったですが何ともありませんでした。その後、明石公園に行ったら目を覆うようなすさまじい惨状でした。遺体が木に引っかかったり、頭が飛んだ遺体、遺体は爆弾の衝撃でバラバラになっていました…魚の棚の人が亡くなっていたところは、公園の一個所にかたまっていたそうです。きっと肩を寄せ合っていたのではないでしょうか。今でもその現場となった公園の競輪場付近に行くと、あの惨劇の記憶が蘇ってくるので近づきたくないそうです。沢山の遺体を収容所まで運んだそうです。現在、明石公園にはその犠牲者を祀る碑が建てられています。






現在、明石公園内明石市図書館の入口には明石の空爆犠牲者を祀る碑が建てられています

 戦時中は、ほとんどの家の大きな家財道具は疎開させ、衣料品とか食料品は家の下に防空壕を掘って入れていました。魚秀(三好さん)の家の下には、炭を貯蔵する六畳と八畳の倉庫(防空壕)があったそうです。商売は早くから企業整備で個人で商売が出来なくなり、政府から配給制度で物が配られていました。かまぼこ屋はかまぼこ屋同士、一つにまとめられ有限会社という一つの企業が作られました。石井さんのおじいさんが初代の代表者をされたそうです。


爆撃により明石城周辺は焼け野原になりました。



7月7日 ついに明石の市街地が標的に!

 次いで川崎航空機明石工場から明石の市街地に標的は移され、明石市街地の空襲は七月七日午前0時十五分から一時三十分まで、約二分間隔で焼夷弾(しょういだん)が1045.2トンが投下されました。360人が死亡、行方不明7人、重軽傷者190人、約九千戸が全壊全焼した大きなものでした。爆弾は落ちると爆発して標的を破壊しますが、焼夷弾は対象物を燃やす爆弾でした。

 まずは照明弾が落とされました。飛行機から見たら明石のまちが全て丸見えになっていたはずです。地上では新聞が読めるぐらいの明るさでした。そして的確に焼夷弾を落としてきたのです。今だったら大変な問題になりますが、一般市民が住んでいる市街地を標的とし、焼夷弾は一般民家を焼き尽くし、一般市民を焼き殺す為に落とされた爆弾でした。



 まずは照明弾が落とされました。飛行機から見たら明石のまちが全て丸見えになっていたはずです。地上では新聞が読めるぐらいの明るさでした。そして的確に焼夷弾を落としてきたのです。今だったら大変な問題になりますが、一般市民が住んでいる市街地を標的とし、焼夷弾は一般民家を焼き尽くし、一般市民を焼き殺す為に落とされた爆弾でした。

 七月六日の深夜、警報のサイレンが鳴り響き、命がけで避難所のある明石公園の憲兵隊前の防空壕へ避難し、避難した人々は助かりました。駅前通りから西に落とされ、すべて焼き尽くされました。石井さんのお店にも四発落とされたそうです。浜に逃げた人は、投下地点から風下だったため目がはれるなど、大変な目にあったそうです。川崎さんは、六日は江井ヶ島のお婆さんの実家で過ごしており、深夜の空爆で東の空が真っ赤に染まっていました。明くる日、勤務先の神戸製鋼から会社のトラックで明石付近まで送ってもらうと一面が焼け野原になっていました。茫然と焼け跡にたたずんでいました。浜の方は空爆の影響は無く、その当時あった旅館等は無事に残っていました。


昭和20年7月7日の焼夷弾空爆後の樽屋町周辺の様子。



復興への歩み

 その次の日から焼け跡の片づけに追われ大変でした。焼け跡からかき集めた廃材でトタン屋根のバラックを自分たちの手で建てました。

 石井さんの所では鉄だった風呂釜は消失せずに残っていたので、家とお風呂場までトロ箱を使った足場をつくり、その間を走ってお風呂に入っていたそうです。またお風呂場の屋根もなく、奇麗なお月さんが見えたのが、子ども心に面白かったそうです。お父さんの友達が、自宅にお風呂があるにもかかわらず、度々お月さんの見えるお風呂に入ろかとよく遊びに来られていたそうです。

 石井さんのお家では戦中、戦争がひどくなってくると、道具(陶器塗物)が好きだった先代が道具をたまたま疎開させていました。戦後その道具で何か出来ないかと、飲食店の端くれみたいなことから商売が始まりました。内容は三円の粕汁と五円の茶碗蒸しを売ったそうです。茶碗蒸しは、卵が少ない時代でしたので、工夫して片栗粉を混ぜて作っていました。それがまたよく売れたそうです。

 その後、明石の中心市街地には災難が二度起こりました。終戦から四年後、バラックでの商売が起動に乗ってきたとき、大火事が発生し魚の棚を含む明石の駅前の大半が消失した「明石大火」が起こりました。その後、大水害もあったそうです。 このような歴史を歩みながら現在の明石があり、現在の私たちの幸せな生活があることを改めて感謝をするばかりです。




● 編 集 後 記 ●
魚の棚の歴史をこれまでに何度か紙面でご紹介させていただきましたが、その度、再認識するのは「先人の方々のご苦労やご努力の上に商店街は成り立っていて、現在、商売をしている私たちはその恩恵を日々受けている」ということです。
今、明石駅前では再開発工事が進行中で魚の棚周辺は大きな変化の時期を迎えようとしていますが、一時代前のよく「激動の」と称される昭和もまた魚の棚にとって、文字通り激しい変化の波に見舞われた時代でした。大火事や水害、公設市場の完成、ダイエーの進出等。そして、今回、取り上げさせていただいた「明石の空襲」もまた魚の棚にとっても忘れてはならない、歴史の一コマと言えるでしょう。戦争を体験された方々に直接お話を伺う機会がある今、是非、貴重なお話を記事にしたいと思いました。
ご協力いただきました皆様本当にありがとうございました。
ミニコミ紙編集委員長 松谷佳邦

 
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