明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙




 終戦の年、昭和二十年(1945年)にあった明石の空爆。
当時十八歳だった石井富貴子さんと当時十六歳だった川崎孝子さんに、
戦争の悲しい体験を未来に伝えていくために、また戦前の生活も含め貴重なお話をお伺いしました。
 石井さんは浪花のおばあちゃん、川崎さんは焼き鯛魚秀のおばさんで、
現在は現役を引退され楽しく老後を過ごされています。



戦前の生活と魚の棚の様子

 当時は魚の棚の通りは石畳で情緒がありました。道幅は現在よりもっと狭かったそうです。左右の店舗を見ながら人が通るので賑やかで活気がありました。魚を目当てに三木や社から多くの人が買い物に来ていたそうです。

 石井さんは、幼少期の頃、播陽幼稚園に通っていたそうです。その当時から昭和50年頃までは、播陽幼稚園は明石市内から子どもたちが通っていました。また土曜幼稚園というものがあって、小学校に入ったときに困らないよう土曜日だけの幼稚園もあったそうです。小学校では二年生までは男女共学、三年生からは男女分かれて勉強していたそうです。

 魚の棚は軟水のいい水が井戸から出て、各家庭に必ず井戸がありました。

 魚の棚の南、現在の日活映画館は三白亭(みはくてい)という、演芸場でした。有名なのがしゃべくり漫才の元祖である「エンタツアチャコ」が初舞台をふんだのがこの三白亭です。三白亭の奥にあったお店の裏から駆け上がるとタダで見ることが出来ました。仕切があってなかった様な作りで、これも面白い時代の一面でした。


昭和初期の明石公園前

 夏には今のような暑さを感じませんでした。道路は土がむき出しでアスファルトのような熱の照り返しがありませんでした。夕方になると打ち水をして、軒先では夜遅くまでロウソクの光の下で男の人が将棋を指していました。その将棋を見て、私たち子どもも将棋を覚えたものです。そして、子どもは花火をして楽しんだことを思い出します。

 魚の棚は電気が通っていました。夕方5時になると篭屋の電気がつき、それが合図で「もう帰らなあかんよ」とよく言われたものです。電気が通っていてもどこかのお家がアイロンを使ったら、電圧の問題で一角の家全てが停電になってしまうほど、不安定な電気事情でした。今は本当に結構な時代だと思いますよ。

 魚の棚では夏休みになると、朝のラジオ体操は出来ないので夕方に行われていました。この時代は、どこの家庭も子どもが六・七人居るのがあたりまえでした。子どもは、今のように手を掛けることもなく育ってきた時代でした。上の子は下の子を見るのが当たり前でした。それでも子どもはすくすくと育っていました。あるお家では寝冷えしないように布団みたいなものをお腹に巻いて寝かせていました。ある日、朝になると一人おらへんな?どこいったんやろと探すと、寝てるあいだにゴロゴロと庭に落ちて、床下に転がりそのまま寝ていた事もあったそうです。しかしこの時代はそういう子育てがあたりまえでした。それでも、みんな立派な大人になって社会で活躍しています。子どもの事をずっと見ている余裕が大人にはありませんでした。喧嘩しようが、先生にしかられようが、今の時代のように問題になる時代じゃありませんでした。この時代は、先生に叱られて当たり前、叱られても親に言ったら反対に怒られるのが分かっているので何も言いませんでした。宿題を忘れたら水の入ったバケツを持たされて廊下に立たされていた。それでも親は何も言わない。本人も自分が悪いから何も言わない。そういう時代でした。今の時代はえらい世の中やなと感じますな。と語って頂きました。

 川崎さんは、学校から帰ってきたら玄関にぽ?ぃと鞄を放り投げ、すぐに外に遊びに行っていたそうです。鞄を置くと同時に一番下の妹を背中に背負って、それでも遊びに出かけていました。そんなおもしろい活気のあった時代でした。





 
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