明石・魚の棚をもっと知りたい、楽しく歩いてみたい……情報紙


今回は、これまでの魚の棚を支えてきた女将さんたち3人にお集まりいただき、
昭和53年当時(明石卸売市場が開設される前)女将さん達から見た魚の棚を語って頂きました。
その当時、魚の棚に嫁がれてきた方に、
「知って来たか、知らずで来たか、地獄八丁の魚の棚」と影で囁かれていたことも…


 瀧野さんのお店は、魚の棚で豆腐店として営まれ、住居も同じでした。しかし平成7年震災の影響で機械が壊れた事もあって廃業、現在は青果店「金引青果」として息子さんが切り盛りされています。
 菅野さんのお店は、昭和53年に明石卸売市場ができるまでは、魚の棚で仲卸しをされ、現在は明石卸売市場で息子さんが仲卸をされています。
 松谷さんのお店は、魚の棚の大通りに面し鮮魚店を営まれ、朝は卸し、昼は小売りの二枚看板で多忙な日々、住居もお店と同じでした。現在は、息子さんが鮮魚の小売業を継がれています。
  昭和53年頃までは、どこのお店も商売と日常生活が一
緒で、店舗の2階で生活をしていたのがあたりまえの時代でした。菅亀さんは、結婚当時(昭和54年)に相生町に家を建ててもらったが、荷物置き場になり、結局、店舗の2階で親と一緒に寝泊りしていたと言うぐらい、商売と生活が重なり合っていた時代だったそうです。


その当時の生活ぶりを皆さんにお伺いしました。
瀧野さん
 昭和37年頃までは、朝は0時半起床、ボイラーに石炭をくべ、豆を臼で挽き、釜で炊いて豆腐を仕込んでいく仕事をしていました。昭和37年になると機械を導入し、起床が4時となりましたが、それは厳しい毎日でした。お店には通いの人が5時に来て朝ごはんを食べていましたので、その用意をこなし、昼の賄い、店の手伝い、夜の支度(ごはん、風呂等)に追われる一日でした。この時代、ご飯を炊くのも薪なので風が吹くと火が消えご飯を炊くのに苦労した思い出があります。また風呂も薪で焚くといった時代です。みんなが入った最後に入る時にはお湯もないといった毎日でした。働く人の中には、集団就職で来た7人の住み込みの方もおり、総勢20人の大所帯の賄いを仕切っていました。今から思うとすごい生活を過ごしてきたと思います。よそより早く店を開けて稼ぐ。そのために睡眠時間は3時間、アスファルト舗装されるまでは、通りは石畳で高下駄(長靴のない時代)では音がするため裸足で店を開けた。これは、他の店に店を開けたことを知られないため。親から仕事をすることをしつけられていたため、これが当たり前と思った時代でした。ひたすら財を築くために働きました。しかし仕事は苦になりませんでした。
 そして昭和53年に卸売市場ができ、魚の棚では、仲卸をしなくなった時から、生活が大きく変わり、楽になった気がします。しかし、あの頃の活気は今はないような気がします。
菅野さん
 3時ころから明石港で始まるセリの準備のために、毎日、朝2時半に起床していました。お店には住込み(九州から)の人が2人いて、部屋は別だがお店で一緒に生活をしていました。昭和40年半ば頃は、地方から集団就職で住込みで、働きにこられる方が多かった。数年働いて、結婚を機に郷里へ帰っていくといった時代でした。今でも昔、住み込みで働いていた方から便りをいただく事もあります。お店が忙しく、隣近所の交流さえない時代でした。
 自分たちが苦労している分、子ども達は、大学に行かせることが多く。その結果、お店を継がないところも出てきているようです。
松谷さん
 菅野さんと同じで3時ころから明石港で始まるセリの準備のために、主人は毎日、朝2時半に起床し、私は少し遅れて起床していました。お店には住み込みの方が離れで過ごし、家族は店の2階で寝起きしていました。
 お店は、瀧野さんの向かいでしたが、その当時、ほとんど話しをする余裕がありませんでした。
 当時、店舗とは別に住宅を持つのが夢で、その実現に向け一生懸命働きました。約40年ほど前に主人が夢をかなえてくれて、家を建てる事ができました。昔は店と住まいを別にするのが夢だったのです。当時は何をしても走りで(目新しいやり方:東京へ魚を荷物として送る)で、各店舗が競争していました。
 そして、子どもが小学校に行く頃から、少しずつ近所付き合い(会話をする事)が始まり、息子が独立してから時間の余裕もでき、本格的な近所同士の付き合いが出来るようになりました。最近では食事や映画を見に行くほどになりました。
 後継ぎになっている息子は大学を出しました。昔は金を生む時代、今はその恩恵を受けているが商売は難しい時代となっているように思います。
 この時代を生きた女将さんたちは、最後に口をそろえておっしゃったのが、あの時代は良い思い出、あの厳しさがあったからこそ、今がある。今では、仕事は息子たちに任せ、楽しく過ごされているそうです。

<前列右から>
菅亀商店(現在、卸売市場で鮮魚仲卸業)菅野照子  昭和11年生まれ 76歳
金引商店(現在、魚の棚で青果店)   瀧野カヅエ 昭和7年生まれ  81歳
松庄商店(現在、魚の棚で鮮魚小売店) 松谷孝子  昭和8年生まれ  80歳
<後方>
コーディネート役 明石市都市整備部  嶋田部長

 



 
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